2013/03/23

9 恩恵と貢献

数週間集中してリハーサルを行なって、私たちはアドヴィジョン・スタジオに入る準備が整った。今はもう伝説的なアルバムとなっている“フラジャイル(こわれもの)”をレコーディングをするためである。不思議な事にレコーディングを開始した瞬間から、私はこのアルバムが特別なものになることが分かった。レコード会社もマネージメントも、私たちが何をしているのかこれっぽっちも理解していなかったにもかかわらずだ!

ここだけの話だが、ミキシング・デスクにいるエディー・オフォードと共に、私たちは文字通り1日24時間作業した。アルバムは6週間足らずで完成し、直後から熱狂的に受け入れられた。

独特な画風で有名だったアーティストのロジャー・ディーンが、アルバム・カバーのデザインを担当する事になった。そして彼はそれからの数年間、アルバム・カバーのみならず舞台セットのデザインに於いても私たちと関わる事になった。

アルバムはアルバム・チャートのトップ10へと掛け上がり、 私たちは全国ツアーに乗り出した。イエスから入る週50ポンドの報酬で出費を十分カバーできるようになり経済的に安定したので、私はセッション活動全般を徐々に減らしてイエスだけに集中できるようになった。

それは素晴らしい時代であった。ストローブスも“パート・オブ・ザ・ユニオン”というヒット・シングルと、“バースティング・アット・ザ・シームズ”というヒット・アルバムを出した。私はとても嬉しかった。まるで関係者全てにとって、物事が実にうまく回り始めたかのようだった。 その上なんと2月にはロスが最初の子どもを身籠ったのだった。

その年の終りにアメリカ・ツアーを行なうことも決まり、私はこの初めて大西洋を越えて演奏に行くという計画に胸躍らせた。私たちはロサンゼルスに到着した。最初のコンサートは、サンセット大通りにあるウイスキー・ア・ゴー・ゴーというクラブでの5日間というものだった。アルバム“フラジャイル”はアメリカではまだ発売されていなかったので、演奏曲目は“イエス・アルバム”からのものが中心となった。そのアルバムは当時大ヒットこそしていなかったが、少なくともアメリカでは発売されていたのだ。“フラジャイル”からは“ハート・オヴ・ザ・サンライズ(燃える朝焼け)”と“ラウンドアバウト”を入れることにした。

その後の6週間、2万人を越える観衆を収容できる巨大な屋内アリーナで、ポスターで見るとテン・イヤーズ・アフターやエドガー・ウインターといったメインのミュージシャンの名前の下、3番目とか4番目の前座として舞台に上がった。私たちが舞台に上がるのは、大抵7時くらいだったが、実はその時にはまだ観衆は2万人なんていなかった。私たちは25分間の演奏時間を与えられ、メインとなるバンドが許す範囲で舞台上のスペースを使う事ができた。でもそれはあまり広い空間とは言えなかった。メインのバンドは自分たちの機材を最初に組んでおくのが普通で、それは決して動かさないようにと厳重に注意されていた。彼らはまたミキシング・デスクの入力ラインもほとんど占有していた。だからポスターに名前が書かれていた他のバンドは、場所取りを競わなければならなかった。私たちのようにポスターの1番下に名前があるということは、事実上肩がぶつかるほどの状態で演奏するってことなのだ!

このことは私にとって大問題であった。と言うのはイギリス国内ツアーで私はキーボードの扱い方に新しいアイデアを持ち込んでいたからであった。キーボードの上にキーボードをバランス良く乗せ、それを私を取り囲むように配置していたのだ。しかしこのやり方はアメリカツアーでは非常に難しかった。今でもいったいどうやって、ツアースタッフが私の機材を舞台上にセッティングできたのかわからない。

最初のショーをいくつか終えたところで、私は意気消沈していた。私たちの演奏時間25分のほとんどの間、人々は自分の席を探していた。数千人の人間が席を探すとなれば、当然静かなはずもなかった。それはまるでホールにミツバチの大群がいるような騒々しさで、私は誰も私たちの演奏にこれっぽちも注意を払っていないと確信していた。曲が終った時も拍手はまばらだったし、それでもあればマシな方だった。私はこの巨大な国でどうやったら成功なんて手にできるのだろうと思い始めていた。

やがてレビュー記事が載り始めた。それは主にメインのミュージシャンに関するものであったが、私たちはどの記事でも要注目バンドに選ばれていた。ツアーが進むにつれて、私たちも自信を得るようになり、クリスマス直前にイギリスに帰って来た時には、再びアメリカツアーに繰り出すのは時間の問題だろうと思うほどに、ひそかな自信に満ちあふれていたのだった。

新年を迎えた朝早く、ウエスト・ハローの小さな家でくつろいでいるところに電話が掛かって来た。電話の声の主は自己紹介を始めた。

「わたくし、デヴィッド・モスと申します。ロンドンのアルバマール通りにありますブライス・ハムナー社の公認会計士です。アトランティック・レコード様から、あなた様の会計士となるようご用命いただきました。少し問題が持ち上がりつつありますので、できるだけ早くお会いできたらと存じます。今日こちらにいらしていただけますでしょうか?」

私はうろたえてしまった。きっと何かとても厄介な問題が起こっているに違いないと思った。午後にはそちらに伺うことを約束し、午後2時半にオーク材の壁でできたオフィスへと出向いた。

最初から心地良く迎えられたので、私はすぐにデヴィッド・モスを好きになった。

「さあ入ってお掛け下さい、リック。お電話で必要以上にご心配させたんじゃないかと気にしておりました。いくつか緊急の問題があるのですが、すぐに対応すれば全てうまくいきますから。」

私が黙って座っていると彼は続けた。

「あなたはまだ、あのレコードのアメリカでの状況にお気づきではないかと思います。まだ最初の印税明細が手に入ったばかりですからね。しかしアルバム“フラジャイル”が猛烈な勢いで売れていることは明らかです。一言で言えば、あなたはあちらのアルバム・チャートのトップ10入り確実な、大成功したアルバムを手にしているということです。売上は200万枚には届かなくても100万枚は確実でしょう。」

私は身体を動かせずに座っていた。

「それはつまり、あなたが間もなく重大な税金の問題に直面する事になることを意味します。そこで私は、あたなが許される限り多くの利益を使い尽くすことで、あなたの個人財源を可能な限り有利にするためにここにいるわけです。そこでまず、あたなには有限責任会社を設立していただくための様々な記入用紙をご用意したました。」

彼は机のこちら側へといくつもの書類を差し出し、私は彼が×印をつけた場所にサインをした。

「結構です。」彼は言った。「次にあなたにお願いしたいのですが、家を一軒購入して下さい。」

「すでに一軒持っているんですが。」私は言った。

「住宅ローンも支払い中ですか?」彼は尋ねた。「もしそうなら、全額でいくらになりますか?」
「ローンを組んでいて、全額4千ポンドです。」

デヴィッドはメガネを外すと、机の上に身を乗り出した。

「早急に引っ越しをされた方がよろしいかと思います。 3万ポンドの価格帯の家を探していただきましょう。4週間以内に1軒見つけて購入していただきます。こちらが私の名刺です。お気に召した家が見つかったら、すぐにこの名刺を不動産業者に渡して私に電話するように言って下さい。そこから後は私が引き継ぎますから。あっ、ところで、明日の朝一番で、現在のお住まいを売りに出して下さい。」

私は心の中でブツブツとしゃべり続けながら、ハローのあるヒル駅に向かう電車の中で腰を下ろしていた。そんな価格帯に不動産があること自体私は知らなかった。電車から降りると、その価格のイメージを得ようとハロー・ハイ通りの不動産屋を見つけて窓からのぞき込んだりした。しかしその地域には2万ポンド以上の販売物件はなかった。私は家に帰ると父に電話し、現状ととともにデヴィッド・モスのオフィスで何があったかを伝えた。

「その価格帯の不動産を見つけるんだと、高級住宅地に行かねばならんだろう。」彼は言った。「バッキンガムシャーのジェラード・クロス地域にある不動産業者に電話して、その価格帯の不動産の資料をいくつか送ってもらいなさい。」

2日後、私は自分なりの“途方もない夢”を軽く上回る豪華な家の写真に見入っていた。書斎付き寝室が5室〜6室に、朝食室、寝室と続きになった浴室 - それらはあまりに豪華過ぎたので、ロスと私は車を出して自分たちで実際に目て見て探すことにしたのだ。

ジェラード・クロスに着くと、私たちはまずそのあたりを車から降りずに、郵便で詳細が送られて来た家々の外観を見て回った。どれ1つ取っても私たちには大邸宅に映った。最後にフルマー通りのサウスゲートと呼ばれる家の前で車を止めた。そこはとても素敵な家で、2万6千500ポンドで売りに出されていた。

「ちょっと中の様子を見てみよう。」私ははやる思いで言った。そして生まれたばかりの男の子オリヴァーを連れたロスと一緒に玄関までずんずんと進むと、ドアベルを鳴らした。

呼び出しに応じて出てきたのは、おしゃれな服装の中年女性だった。彼女は明らかに私のような人間には会ったことがなかったらしく、玄関前の階段にいる私を見ると、はっきり分かるほどに顔色を変え、差し迫っている攻撃から身を守るために何か役に立つものはないかと、あたりを見回したように見えた。

「こんにちは、」私は明るく言った。「お宅をちょっと見せて頂けますか?」

この身長6フィート4インチで、ビニール地でできたライム・グリーンのズボンを履いた長髪の田舎者は、ご近所に見られる前に家の中に通してしまうのが一番安全だと彼女は感じたようだった。そこで彼女は家の中へと私たちを招き入れてくれたのだった。

彼女は大きな製菓会社であるカラード&バウザーの重役の奥様であることがわかった。彼女はオリヴァーが気に入って、私たち2人が見て回っている間オリヴァーを抱いていましょうと申し出てくれた。

私たちはその家が気に入った。家は私たちの心に強い痕跡を残した。悲しいことにオリヴァーを奥様から受け取った時、 彼もまた痕跡を残していたのだ。彼はオシッコをして不幸にもおむつからそれが漏れ、彼女のカーディガンの前の部分を汚していたのだった。

「私たちはこの家がとても気に入ったので、ぜひ購入したいんですが。」全体をくまなく見終わって玄関の間に戻った時、私はそう言った。

彼女はちょっとびっくりしたようだったが、それなら不動産業者のところへ行くようにと言ってくれた。

10分後、私はジェラード・クロスの中心街にあるギディ&ギディという小さなオフィスを訪ねた。そこは受付とその奥にガラスのパーテーションで区切られた事務所があるだけの、こじんまりとしたオフィスだった。オフィスのドアは開いていて、素敵な身なりの男性が机の向こうに座っているのが見えた。彼は書類から顔を上げると私を見て、血相を変えて机の向こうで立ち上りドアを閉めた。

受付の机にいた若い女性の方がはるかにフレンドリーで、ご用件はどのようなことでしょう?と聞いてきた。

「フルマー通りのサウスゲートを購入したいんですが。」

彼女は受付からガラス張りのオフィスへと歩くと、ドアをノックして中に入りドアを閉めた。数分後、彼女はあの素敵な身なりの男性を従えて出てきた。彼は私のところへやって来た。

「サウスゲートをご購入なさいたいと、そういうことですかな?」彼は私をジロジロと眺めつつ、ちょっと皮肉っぽくそう聞いてきた。

「そうです、お願いします。今見てきたところで、とても気に入ったんですよ。」

オリヴァーのオムツからはオシッコがかなり漏れていて、このような密閉空間では、すでに厄介な感じになっていたその場の雰囲気を和らげることもできなかった。

「こちらをご購入するために、住宅ローンをお組みになりたいと?」皮肉は信じられないほど露骨になった。しかし私は負けじと頑張った。

「いや、そう言うわけじゃないんです。欲しい物件が見つかったら、すぐ不動産業者にこの番号のこの人に電話してもらうようにと言われているんです。」

私は彼にデヴィッド・モスの名刺を渡した。
 
彼はそれを受け取ると、イライラしたようなため息を1つついてオフィスへと入って行った。5分後に彼は再び現れた。今度は大歓迎というような満面の笑顔であった。

「ウェイクマンご夫妻」彼は始めた。「オフィスの方へおいでいただいてお座り下さい。シャーリー、すぐ紅茶かコーヒーをお持ちして。ご主人はもちろんもう少し濃いものの方がよろしいでしょうな?」

ご主人はその方がよろしかった。

その後の10分間、 私は体験したことのない最高の媚びへつらいを目の当たりにしたのだった。私はデヴィッド・モスが大好きになった。彼こそ私好みの会計士だ!

ウエスト・ハローの家を1万1千ポンドで売って、貸付金返金も含めて銀行に持って行った。ウイリアム氏は、私に対する信用が間違いなかったことが証明されて喜んでくれて、以来私たちの関係は彼が退職するまでずっと続いたのだった。1972年4月初旬には、私たちは引っ越しを済ませた。1ヶ月後、私はロールス・ロイスのシルバークラウドを購入した。

私の見習い期間は修了となり、今では完璧に独り立ちしたロック・スターとなったのだ!

その後1972年は瞬く間に過ぎていった。イエスは“クロース・トゥ・ジ・エッジ(危機)”をレコーディングし、それまでのイエスのどのアルバムよりもビッグヒットとなった。アメリカでのコンサートではトップから2番目で演奏できるようになり、いくつかのコンサートではトップを飾ることさえあった。ビル・ブルーフォードがロバート・フリップと仕事をするためにバンドを去り、代わりにアラン・ホワイトがドラムス担当となった。

私はA&Mレコードで最初のソロ・アルバムの制作にも取りかかっていた。レコーディングはイエスがツアーに出ない合間を縫って行なっていた - しかしバンドはアメリカだけでなくヨーロッパ各地でも引っ張りだこだったので、時間はあまり取れなかった。

1973年1月、最初のソロ・アルバム「ザ・シックス・ワイヴズ・オブ・ヘンリー・ジ・エイス(ヘンリー八世と六人の妻)」が発売された。レビュー記事は惨憺たるものだった。ロンドンのA&Mレコードの上層部はこのアルバムを評価しなかった。コンセプト・アルバムでありボーカルもなかったからだった。彼らは私のマネージャーであるブライアン・レーンに、レコードのプレスは1万2千500枚にして制作費用を何とか回収するようにと伝えた。

しかしこのアルバムは、発売後5年間だけでも600万枚以上売れたのだった。

この年イエスはアメリカとヨーロッパに加え、日本とオーストラリアにもツアーをした。そしてアメリカでライヴ・アルバムをレコーディングした。それは“イエスソングズ”という名前の3枚組アルバムとして発売された。このアルバムは70年代で最も売れたアルバムの1つとなり、イエスは世界的トップバンドとしての地位を完全に確立することとなった。 

しかしながら、1973年が終るまでに、イエスという組織にはもう亀裂が生じ始めていたのだった。

私を除くバンドメンバー達は、皆本格的な菜食主義者になっていた。私はバンドの中で唯一の大酒飲みだったので、社会的に私たちの間にはかなりの隔たりができていた。ツアーの空き時間は、私はスタッフたちとカレーを食べ酒を飲んで過ごすことが多かった。一方ジョン、クリス、アラン、スティーヴは、ナッツ・バーガー[訳者注:ベジタリアン用に肉類の代わりにナッツや豆などで作られたハンバーガー]が食べられる近場の店を探しに出かけるのだ。

新しい音楽についての話し合いは、常にこうした社会的な時間に行なわれる。私は彼らとはまったく違った社会生活を営んでいて彼らと一緒にはいなかったので、アルバムの方向性に関する音楽的な話し合いに、何も貢献出来なくなってしまったのだ。私が関わろうとする頃には、もうすでに手遅れであった。

“テイルズ・フォー・トポグラフィック・オーシャンズ(海洋地形学の物語)”は、イエスのファンからは熱烈に愛されるか猛烈に嫌われるアルバムである。私は後者に属する。

もちろんそのアルバムには素晴らしい瞬間がある。でもそれは私に言わせれば2枚組アルバムに十分だとは言い難い。 それでもなお私はレコーディングの間、異様な環境の中で仕方なくやるのではなく、とにかくできる範囲で少しでも貢献しようと努力したのだった。

このアルバムをどこでレコーディングするかに関しては、長い間話し合いが持たれていた。今回で決めようという最後の話し合いで、田舎に作られた新しいスタジオの1つを使うか、都会に留まるかという割れた判定に終止符を打つこととなった。マネージメント側の代表であるブライアン・レインとクリスと私は都会に留まりたかったが、アランとスティーヴとジョンは田舎暮らしに魅力を感じていた。最終的に都会に決定となった - 若干の妥協をすることで。妥協とは私たちが、まるで田舎でレコーディングしているように感じられるようにするというものであった。私はこの妥協点に関してはお手上げだったので、飲みに出てしまったのだった。

北ロンドンのウィルズデン・ハイ・ロード脇にあるモーガン・スタジオに、私は最初に到着した。そこは4つのスタジオにレストランとバーが併設された複合施設だった。到着してすぐ向かったのはバーだ。スコッチの大を片手に、ベーコン・サンドイッチをもう一方の手に、私がテーブルのところで座ると、ほんの数分後にスタジオ・マネージャー兼共有者であるモンティ・バブソンがやって来た。

「おはよう、リック。」
「やあ、モンティ。」私は口にサンドイッチを頬張ったまま答えた。

彼はかなり皮肉混じりな質問で会話を続けた。

「バンドの他のメンバー達は何時に到着するのかねぇ?全員少なくともこの惑星のどこかからやってくるんだろ?」
「言ってる意味がわからないな、モンティー。」私は言った。「なぞなぞにはまだちょっと時間が早過ぎる。朝は少なくともスコッチの大を2〜3杯飲まないと、会話っていうものを始められないタチでね。」

彼は立ち上がった。

「そうだな、それをすぐ飲んじまいなよ。店のおごりで2杯飲んでいきな。5分後に第3スタジオの前で会おう。」

モーガン・スタジオのツケによるウイスキーで喉を潤してから、私は言われた通りにモーガンと落ち合った。

「君のところのスタッフたちが、ライトバンで8時にここにやって来たんだ。」モンティが言った。

「そりゃそうだろう。」私は答えた。「彼らは機材を運び込まなければならないからね。」
「機材は10時に届くんだ。」モンティが言った。
「ほぉ、それなら8時には何が届いたんだ?」私は聞いた。私は興味を魅かれ始めていた。
「この山だよ。」モンティはそう言うと、両開きのドアを開けて第3スタジオに入っていった。

私は言葉を失った。スタジオは農家の庭と化していたのだ。大量の麦わらの塊があちこちにバラまかれており、その上に私のキーボード群が不安定に置かれていた。ドラムセットは白い格子状フェンスできちんと囲われていた。その他農家の庭にありそうな用具が本物っぽさを高めていたが、その中でも最高だったのは巨大な段ボールでできた牛で、スタジオの中央に立ってギターアンプが載っている牛乳容器を見つめていたのだった。

「あのね?」彼が言った。「私のスタジオはこれから3ヶ月、こんな状態のままってこと?茶番劇だな。」
「モンティ、3ヶ月と言ったら結構なスタジオ・レンタル料だよ。」私はにやりと笑ってそう答えた。
「確かにまぁ、あのフェンスは良く出来ているよ、」モンティはそう言って事務所へ戻って行った。

最後に全員が揃うとレコーディングがスタートした。そこは仕事するには必ずしも楽な場所とは言えなかった。私のキーボードは定期的に分解し、虫の死骸やトウモロコシの穂を取り除かなくてはならず、私の足や口が病気にかかったと言っても、誰も本気で取り合ってはくれなかったのだ。

このレコーディング以前に私はその年、レインボーという名前の今は亡きロックのコンサート会場で行なわれたザ・フーの“トミー”のライヴに、ロンドン・シンフォニー・オーケストラと共に出演してキーボードを演奏していた。そのショーは故ルー・ライスナーのプロデュースによるもので、リハーサルの間私は彼にセカンド・ソロ・アルバムの計画についての話をし、協力をお願いしていたのだった。私のアイデアはまた別のコンセプト・アルバムを作るというものだったが、今回はより一層壮大なものを考えていたのだ:オーケストラ、合唱団、ナレーター、そしてロックバンドだ。つまり、フルコースである。彼はそのアイデアを気に入ってくれたので、私はさっそく全部まとめて作業に取りかかった。私が選んだコンセプトは、ジュール・ベルヌの“ジャーニー・トゥー・ザ・センター・オヴ・ジ・アース(地底探検)”であった。

私が音楽全体を短い楽譜に書き出し、それを元にしたオーケストラと合唱団の楽譜作りを“トミー”のオーケストレーションを担当していたダニー・ベッカーマンとウィル・マローンに頼むことにした。その間に私はその曲を演奏してくれるバンドの編成に専念した。曲は次の1月にロイアル・フェスティバル・ホールでライヴ・レコーディングされることになった。

マネージメント側とレコード会社は、私にできるだけ多くの有名人をバンドに揃えさせ、スターが勢揃いするイベントにしようとしていた。私はそれに反対した。私は人々に誰が演奏したかではなく、音楽そのものを記憶して欲しかったからだ。ある日曜日の夜、私はこの問題をほぼ完全に、それも一挙に解決したのだった。

私の家の近くのホーマ・グリーンと呼ばれる村に、ヴァリアント・トゥルーパーという名の素敵な小さなパブがあった。私は日曜の夜になるとよくそこに行っては、その店で定期的に演奏している多くのミュージシャン達に加わったものだった。日曜の夜はいつも満員で、店主のピートはこうした状況を最大限に活用して、同時にチャリティー募金の額を増やすための斬新な方法を編み出していた。基本的にそれは、誰かが人数分の酒を振る舞うのに金を払ったら、ピートはその釣り銭を大きな樽に入れるというものだった。彼は樽を定期的に空にし、その中のお金で身体障害者のために“キャスター付きのイス”を購入した。

ヴァリアント・トゥルーパーで演奏していたのは、熟練のミュージシャン達ばかりだった。バンドのシンガーが私の大切な友だちであるアシュレー・ホルトだったので、尚のこと私はそこでの夜を楽しんだ。彼はロニー・スミスのところを随分前に辞めていたが、まだバッキンガムシャー界隈に住んでいたのだ。


閉店時間となって最後の客が出て行くとピートはドアにカギをかけたが、中にはまだ私、アシュレー、ベース奏者のロジャー・ニューウェル、ドラマーのバーニー・ジャイムズが残っていた。私は酒を持って来てから連中に座るように言った。彼らが興味を持ってくれるに違いない話を用意していたのだ。

ライブの予定があるのだが彼らにそこでバンドの中心になってもらいたいと、私は彼らに話した。定期的にセッションの仕事をしていた頃に何回も仕事を共にしたセッション・ギタリスト、マイク・イーガンと一緒にである。私は2人のシンガーを使いたいと思っていて、アシュレーに加えてゲイリー・ピックフォード・ホプキンスをすでに選んでいた。そこにいた連中はその話に夢中になり、その場ですぐに“加入”が決まった。

午前2時頃になってパブを出ようとした時、アシュレーが後ろから叫んだ。

「ところでリック、そのライヴはいつどこでやるんだ?」

私はドアの方に振り返って言った。

「1月18日だ。場所はロイヤル・フェスティバル・ホール。私が書き上げた“ジャーニー・トゥー・ザ・センター・オヴ・ジ・アース(地底探検)”っていう新曲を、ロンドン・シンフォニー・オーケストラとイングリッシュ・チェンバー・クワイアと一緒にやるんだよ。デヴィッド・ミーシャムが指揮でデヴィッド・ヘミングスがナレーションだ。」

ドアを閉めると店の中はしーんと静まり返った。

A&Mレコードから得られる前払いでは、そのような大作の制作費には全然足らなかったので、私はイエスで稼いだお金を全てつぎ込み、家を可能な限り抵当に入れ、ロールスロイスを売り払って、夢を実現するために必要な資金を調達しようとした。

リハーサルは順調に進み、コンサートのチケットは早々に売り切れとなった。

「もうショーのチケットが売切れたなんて、素晴らしいじゃないか」大事な日がちょうど2週間後に迫った頃、オフィスを訪ねるとブライアン・レインは言った。 

「それで思い出したんだけど、」私は言った。「家族のチケットはいつ貰えるのかな?」
「今用意するよ、」彼はそう言うと秘書に命じてプロモーターのハーヴェイ・ゴールドスミスに電話をかけさせた。

会話のこちら側だけしか聞くことができなかったが、それでも状況はまったくもって上手くいっていないことがわかった。

「何て事だ」という言葉が多くを物語っていた。「君は当然のこととしてアーティストのためにチケットを取って置いていると思っていたんだが。」という言葉もそうだった。最後にブライアンは受話器を置いた。

「ハーヴェイはチケットを全部売ってしまっていた。」
「つまり私の分は?」頑張っても無駄と十分知りつつ、私は聞いてみた。

「手元に残したチケットは1枚もないらしい。 でも慌てるな。この番号にかければ何枚か手に入るから。」彼は電話番号が書かれた紙を私に手渡した。「彼はダフ屋だ。50枚ぐらいはかき集めているだろう。でもすぐ行動した方がいい、凄い売れ行きなのは間違いないからな。」

私は呆れ返っていたが、ブライアンが差し出す電話を手に取るとその番号にかけてみた。そして手短かに自己紹介し、困っている状況を説明した。

「何枚いるんだい?」彼は聞いた。
「20枚だ。」
「今ちょうど残りが20枚になったところだ。精一杯負けて500ポンドってところだ。 それでどうかな?」
「暴利だ」私は言った。「正規のチケット代の8倍じゃないか。」
「ここだけの話、」電話の向こうの声が言った。「おたくは今最悪な状況で困惑の極みにいるようだから、カップ・ファイナル[訳者注:イギリスのサッカーのFA Cup最終戦]のペアチケットをオマケにつけるよ。それでどうだい?」
「良い席なのか?」
「前から3列目と4列目、かぶりつきだ。」 
「確かにカップ・ファイナルのチケットだな?」
「そうさ、それも最高の席だ。」
「取引成立だ。」 

コンサートは驚異的な成功を収めた。 私たちは同じ夜に2回の公演を行い、2番目の方をレコーディングした。参加者は皆全力を出し切った。公演後、私1人接待が出来なくなってしまった。人生で初めて小さいながら致命的な弱点が現れて、本当に疲れ切って具合が悪くなってしまったのだ。

レビュー記事は素晴らしく、私はライヴ・テープのミキシングのために1週間も経たないうちにモーガン・スタジオに戻った。私はできるだけ早くマスターテープを完成させてA&Mレコードにそれを渡す必要があった。コンサートが皆の心の中でまだ新鮮な内に、発売日を決めたかったのだ。2週間で作業は完了し、私はそれをレコード会社に渡した。その翌日、ブライアンから家に電話があった。

「大問題が発生した。」彼は言った。「A&Mはこれが気に入らないらしく、売れる見込みが無いと思っている。だから発売するつもりはないらしい。」
 
私はひどいショックを受けた。 私の持ち物と多額の借金は、全て“ジャーニー・トゥー・ザ・センター・オヴ・ジ・アース(地底探検)”頼みなのだ。加えてあと数週間で2度目の父親になる予定なのである。財政難は深刻だったのだ。

「ブライアン、発売してもらわないと困るんだ。」私は嘆願した。「そうでないと、私は破産だよ。」

「僕に任せてくれないか。」ブライアンは言った。「上手く行きそうな考えがあるんだ。君の契約先は実はアメリカのA&Mなんだ。だからカリフォルニアにいるA&M社長、ジェリー・モスにカセットを送ろうと思う。もう彼には話はしてある。彼が言うには、彼が音楽を気に入ればロンドン・オフィスの決断を覆せるそうだ。」

1週間やきもきして過ごした後、再びブライアンから電話があった。

「ジェリー・モスがこっちのA&Mに発売するように命じたぞ。3週間以内に店頭に並ぶ。」

人生でこれほどの安堵を味わったことはなかった。

イエスの件は依然として大きな問題であった。“テイルズ・フォー・トポグラフィック・オーシャンズ(海洋地形学の物語)”をツアーで演奏するのは楽しくなかったので、私はすぐにバンドの中で孤立した。ヨーロッパツアーのフランクフルトでのこと、私はミーティングを開いてもらってバンドを辞めたいと切り出した。でも真剣には取り合ってもらえなかった。誰もが、結論を急がずにツアー終了まで待って、その時この件についてもう一度ミーティングを持った方が良いと勧めた。私はしぶしぶ同意した。

ツアーの間、次のイエスのアルバムに関する計画が具体化し始めたが、その音楽的なアイデアはやはり“テイルズ・フォー・トポグラフィック・オーシャンズ(海洋地形学の物語)”スタイルであったため、ツアー終了時に私は改めてバンドを辞めたいと表明した。

それでも真剣に受け取ってもらえなかったので、ツアー後に私はこの件すべてから逃れるために、デヴォンに購入してあった小さな山荘に、3月に生まれたアダムを含む家族全員を引き連れて移り住んだ。

1974年5月18日は、生涯忘れることの出来ない日となった。 その日は午前中のブライアン・レインからの電話で始まった。彼はイエスの新しいアルバムのためのリハーサルが、翌週から始まる予定だと告げた。私は彼に、そこには参加しないと言った。

「つまり、君は本気でバンドを辞める気なのか?」彼の声から心底動揺していることが伝わってきた。

「そうだよ、ブライアン。バンドの中ではさ、恩恵を受けるのと同じくらい貢献をすることができないとダメなんだ。イエスが今変わりつつある新しい音楽スタイルには、僕はあまり貢献できないんだ。だからバンドのためにも私が辞めるのが一番だと思うんだ。」

少し間を置いてから、ブライアンはまた話し出した。 

「君の言うことは分かるよ。でも正気の沙汰じゃないぞ。君はまさに大金を得ようとしている。君が今までの3年間に費やした労力全ての恩恵を、誰か別のキーボード奏者にくれてやることになる。プライドを捨ててこのアルバム制作とその後のツアーをやって、経済的にも一本立ちした上で辞めるっていうのはどうなんだい?」

私は彼にそれはできないと言った。結局、代わりのキーボード奏者を選び終えるまで、公表はしないようにと彼が私に頼んだところで会話終りとなった。私はそれを了承し、新しいキーボード奏者が誰であっても、“フラジャイル(こわれもの)”や“クロース・トゥ・ジ・エッジ(危機)”や“テイルズ・フォー・トポグラフィック・オーシャンズ(海洋地形学の物語)”で私が関わった曲をライヴ用にアレンジする場合には、協力を惜しまないと伝えた。私はイエスが本当に好きだったので、こはれ苦渋の決断であった。

受話器を置いてから5分後、再び電話が鳴った。今度はA&Mレコードのテリー・オニールからだった。

「リック、君に素晴らしい知らせだ。“ジャーニー・トゥ・ザ・センター・オブ・ジ・アース(地底探検)”が、イギリスのアルバム・チャートの第1位になったぞ。」

1974年5月18日、それは私の25歳の誕生日であった。



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※ 全14章の「SAY YES!」の物語はまだまだ続きますが、Rick Wakeman氏に翻訳&ウェヴ掲載のご許可いただいたのはここまでとなります。お読みいただきましてありがとうございました。またRick Wakeman氏の寛大なるご好意に、心から感謝いたします。

 順風満帆に見える彼の人生ですが、この後大きく揺れ動きます。一度は公園のベンチで寝るほどに落ちぶれたりもします。まさに波瀾万丈な展開が待っていて、それがこの本の大きな魅力でもあるのですが、当翻訳ブログとしては、いつの日か全訳が叶うことを夢見つつ、ここで終りたいと思います。
 
 なお、本章で「小さいながら致命的な弱点」という表現が出てきます。これは書籍では後述されますが、リックが知らない間に患っていた心臓病の発作のことです。 彼は少なくとも3回の発作に見舞われています。

TAKAMO
2013.3.23